先月ちょいとポーランドに滞在しておりました。
旅行のご報告もかねて…全15回になる長いPOSTです。
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ポーランドはヨーロッパのほぼ中央に位置する国家ですが、先日まで日本からの直行便もなく、案外日本人には馴染みの薄い国家かもしれません、名前くらいは知られていると思いますが。
軍事に造詣の深い方なら「ワルシャワ条約機構」の名前くらい聞いたことがあるかもしれませんが、ワルシャワはご存知の方も多いようにここポーランドの首都で、かつては東側陣営の重要国家として「鉄のカーテン」の中にあり、日本人が簡単に訪れるような場所でもありませんでした。
ですが、ヨーロッパの歴史を知る上で絶対避けては通れない国家でもあり、一度どうしてもこの目で見ておかなきゃならないとは思っていたのです。
前座としてちょっと解説、文字ばっかりですが、ポーランドというものを軽く知っておいてほしいので説明いたします。
ここでちょっとポーランドという国家を説明するとですね。
そもそも「ポーランド」という国家、
正式名称はポーランド語で「Rzeczpospolita Polska(ジェチュポスポリタ・ポルスカ)」といいます、一般的にはPolska(ポルスカ)と呼ばれます。
語源は太古にここに存在した「ポラン族」に由来すると言われていまして、ポルスカとはすなわち「ポラン族の国」を意味しています。
もともとこのポランという言葉は「平原」を意味する「ポーレ」という言葉から来ていると言われていまして、すなわち強引に翻訳すると「平原族の国」、「ポーレ」を平原だとすると、欧米日本に通用する「ポーランド」は「平原の国」と解釈することもできるわけで、その名前の通り、この国家は平原がとても多い平たい国です。
平原が多いので、古来より陸路での人の往来が容易、位置的に東西の文化の衝突点であったこともあって、東西文化が出会って融合していく場所でもあり、日本の縄文土器文化の根源が実はポーランドにあることや、メソポタミア文明より早くチーズが作られていたことも分かっています。
また、同様の理由で多民族が流入したほか、併合した国の国民や難民を多く取り入れてきた経緯から、今、一般的に「ポーランド人」と言われる民族は原始ポーランド人(レフ人)に様々な民族が混血し、これらがまざりあってひとつの「ポーランド文化」を作り上げてきた人々で、一応の西スラブ系スラブ民族ではあるものの、ポーランド人の姓には出自となった民族の特色が散見され、その姓の種類は40万種類にのぼると言われています、これを「ポーランド人」と呼び、混血の末に生まれてきた人種である現ポーランド人を「単一民族」とみなす面白い解釈もあります。
前述のように、「平たい国家」です、こういった文化的刺激に富む土地であったと同時に、こういう国土は「攻められやすく守りにくい」という欠点を持つことにもなります。
過去、ポーランドは幾度も侵略を受け、何度も国家そのものが消滅しています。
中世の話等すると長くなってしまうので、一番至近で分かりやすいのが第二次世界大戦です。
1939年8月、アドルフ・ヒトラー率いるドイツと、ヨシフ・スターリン率いるソ連が秘密協定を結び、ポーランドに攻め込んだのです。
ヒトラーはその著書「わが闘争」の中で「東方生存権」の獲得について述べており(ただし、この発想はヴィルヘルム時代のドイツ帝国時代から存在はしている)「東方から押し寄せてくるアジア内陸の人間、その背後にいる国際ユダヤ人に対抗するためには、ドイツが一定の生存圏を得て、指導的大国にならねばならない」と述べているほか、国策的に人口の増加を賄うためには領土拡張を推し進めるべきだという考えを持っていました。
また、ポーランドに付随していたダンツィヒ(現在のポーランド名グダニスク)は第一次世界大戦の敗戦によってドイツから奪われた土地であったことも拍車をかけたと思われ、ポーランドへの侵攻は決定事項として政権序盤より考えていたと思われます、しかし、そのポーランドの向こうにはソ連赤軍が待ち構えていました。
ポーランドはフランスやイギリスと同盟関係にあったため、更に国境を脅かされたソビエトと事を構えてしまうと、ドイツとしては東西二正面での戦争になってしまいます。
逆にソビエトはフランス、ドイツ両方と交渉しつつ様子見をしていましたが、フランスやイギリスはナチスドイツの勢力拡大を黙認しているのではないかという考えも持っていました。
ナチスドイツは反共を謳っていたので元来から手を組める相手ではありませんでしたが、二正面作戦を避けたいドイツは、ソビエトとの交渉の末、領土の半分を渡すことを前提に「ドイツと交戦しない」という条約締結に成功します。
こうして、1939年9月1日、ポーランド軍によるドイツ領放送局の攻撃というでっち上げの事件を口実に、ナチスドイツの機甲師団がポーランドになだれ込みました。
圧倒的軍事力に対抗できないばかりかポーランドは長い国境を防衛する立場で不利なため、フランスやイギリスという同盟国の支援が来るまで撤退して持ちこたえる戦略に出ます、こうしてルーマニアやソビエトと国境を接する東側へ戦線を後退させますが、1939年9月17日、今度はドイツと呼応したソ連軍が国境を越えてなだれ込んで来ました。
このソビエトの侵攻を予想していなかったポーランド軍はもはや陣地を維持できず、中立国であったルーマニアへ全軍を脱出させ、わずか一カ月ほどでポーランドはドイツ、ソビエト(同時にドイツと協力して侵攻したスロヴァキアと、後にソビエトから領土を割譲されたリトアニア)に分割され、終戦までポーランドという国家は消滅します、フランスとイギリスはこの侵攻に対し宣戦布告を行い、第二次世界大戦が勃発しますが、ついにポーランド人たちが待っていたポーランドへ兵を送ることはありませんでした。
後述しますが、この後の歴史でも、このようにポーランドは騙され、簒奪され、裏切られ続けてきた歴史を持つ国家です。
こういう歴史を持つと、民族はひねくれてしまい、被害妄想的に歪んで攻撃的な民族になりがちなものですが、出会ったポーランドの人々を見ると、その方向性は違います。
人とモメない。
争いを避ける、我を殺して調和を重んじる、そういう気質があるような気がします。
ちょっと日本人とも通じるところがありますね。
ドイツとソビエトが不可侵条約によって交戦しないでいる間、ご存知の通りナチスドイツは破竹の勢いで西ヨーロッパに攻め込み、ついにパリを陥落させるに至ります。
ヨーロッパの地図はカギ十字の国家色に染まり、西側の陸づづきで戦う国家を滅ぼすと、つに1941年6月22日3時15分、ヒトラーは「バルバロッサ作戦」を発動し、ソビエトにも牙をむきます。
ソビエトへ奇襲攻撃をかけたドイツ軍はソビエトに大勝しますが、この序盤の戦場となったのも当然ポーランドです。
このとき、歴史的に反ソ感情が強かったバルト地方や、過酷な共産党の政策下にあったウクライナの住民は、ドイツ軍を当初「共産主義ロシアの圧制からの解放軍」と歓迎し、ドイツ軍に志願したり共産主義者を引き渡すなど自ら進んでドイツ軍の支配に協力する住民も現れましたが、ヒトラーはスラブ民族を「劣等民族」とみなしていたため、全土をドイツに占領されたポーランドやスラブ地方はさらなる悲劇を生むことになります。
後述しますが、ドイツ占領下となったポーランドでは雑多な民族が混在して住んでおり、その多くはヒトラーが劣等民族とみなす人種でした。
このため、かのアウシュヴィッツ強制収容所をはじめとする収容所やゲットーと呼ばれる民族隔離区画もポーランド国内に多く作られ、終戦までの間、この国ではホロコーストの嵐が吹き荒れることになります。
脱出したポーランド軍は最初はフランスへ、フランスがナチスに占領されるとイギリスに本拠地を移し、ポーランド亡命政府として地下抵抗運動を展開(このとき「ワルシャワ蜂起」が発生し、再びポーランドはソビエトに裏切られることになります)、終戦を迎えるとポツダム宣言をへてポーランドはソビエト影響下の衛星国家として国家を復活させることになりますが、このときの政府はソビエトの傀儡政権であって、亡命政府とはまた異なる組織でした。
時は流れて1980年、東欧革命の流れでワレサ議長率いる「連帯」が政権を握ると、亡命政府は成立した第三共和国へ憲法正文、国旗を継承し、亡命政府は解体、現在のポーランド政府になります。
こうして、今のポーランドはEUにも加盟し、温和な国民性を持つ平和な国家になりましたが、ワレサ議長が政権を担ってからも、計画経済から市場経済への移行に伴い他国の政府や銀行からの借金が423億ドル(GDPの64.8%) まで増加するという大変な経済危機も経験、西欧諸国や日本からの支援でなんとか乗り切ったポーランドは、その経験からか、リーマンショック等に端を発する世界経済危機でもヨーロッパで唯一景気後退を回避するという「経済巧者」ぶりも持ち合わせる国家になりました。
こういう経緯からか、もともと共産主義的計画経済下からショック療法的に市場経済に移行し、かつ、「ユーロ」を使用せず独自通貨の「ズゥオティ」を使っているためか、日本人から見るとポーランドはおしなべて物価が安く、旅行しても過ごしやすい国家でもあります。
今回の行程では、ポーランドの歴史的に避けて通れない都市「クラクフ」を主な拠点に、歴史や風俗をこの目で見てこようという行程で、結論から言うと大変に興味深く素晴らしい旅程になりました。
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