2016/08/11

ポーランド⑧ アウシュヴィッツ第一強制収容所

今回、ポーランドを訪問した主目的はここです。


アウシュヴィッツ強制収容所跡地。

ホロコーストの代名詞として世界中にその名が知られる「絶滅収容所」で、ナチスドイツ時代に、ユダヤ人、政治犯、ロマ・シンティ(ジプシー)、精神障害者、身体障害者、同性愛者などを収容、虐殺し、国家をあげて推進した人種差別的な絶滅政策 (ホロコースト) および強制労働により、最大級の犠牲者を出した強制収容所。その中に収容された90%がユダヤ人であったと言われています。

欧州の近代史を知る上で、絶対に避けては通れないこの場所を、自分の目で見てきたかった、それが今回ポーランドに向かった理由です。

アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所は、ポーランドのスロヴァキア国境に近いオシフィエンチム(Oświęcim)という街の郊外にあります、ドイツ人には発音しづらかったのか、アウシュヴィッツというのはオシフェンチムをドイツ的に読みやすく読んだ名称です。


日本でも南京事件でそうなっているように、戦後死亡者数が視点によって大きく異なることがあります。
ここでも同様、アウシュヴィッツ・ビルケナウで殺害された人数は資料や視点、その主張する立場によって大きく異なります。
アウシュヴィッツは送りこまれた人数の総数が記録されていないので、600万人(ニュルンベルグ軍事裁判)から150万人(1995年の資料)など大きく幅があるのが現実です。
世の中にはホロコースト否認論というものがあり、ホロコーストがなかったか、もしくはずっと規模が少ないものだったと主張する人々もいます。


彼らの主張には、「ドイツについての狂気じみた話を広めることでポーランドやチェコスロヴァキアのような周辺国が、ソ連による支配を容易に受け入れやすくなる」、「たとえばアメリカのユダヤ社会でホロコーストが喧伝されるようになったのは1970年代からで、中東戦争を背景にイスラエル支持を強化するための政治戦略だった」などという分析がたいがい含まれていますが、彼らの主張は捏造はほぼソ連によって行われたことになっているものの、それならば第三次中東戦争の際、イランを支持していたソビエトがホロコーストの捏造を暴露しなかったのはなぜかという理由がわかりません。

そしてなにより、この場所に立ってなお「ホロコーストは捏造だった」などと考えられるというのは、私の個人的な意見ではありますが、一度精神疾患を疑った方がいいと思います。
個人的に信用できる資料を読みこむ限り、もっとも少なく見積もって最低150万人は虐殺されたものと考えますが、私の住む横須賀市の人口が41万人ですから、もっとも少なく見積もっても、新生児までを含めた横須賀市の人間を3回分以上抹殺できる人数です。


なぜここに絶滅収容所が作られたのかというのにはいろいろ理由があります。
日本人にはポーランドがヨーロッパ東側にある印象があると思いますが、それはもともとポーランドが政治的に東側陣営であったことや、日本人は西側国家との繋がりが強く、フランスやドイツ、イタリアなどをヨーロッパの主要部分と捉えがちなイメージからではないかと思います。

実際には、ポーランドは地政学的にはヨーロッパの中央に位置しており、オシフェンチムはまさにその中央ともいえる場所に存在しています。


このため鉄道の接続がよいこと、また、石炭が産出されたため燃料の供給が容易であったこと、もともとは軍馬の調教場であり、なにせポーランドですから平地も多く、広大な土地の確保が可能であったとこなどが理由のようです。

それなりの年齢にもなればアウシュヴィッツの名前を聞いたことがない人はいないと思いますが、大抵の場合この地区の収容所群を指すことが多く、実際にはアウシュヴィッツ、ビルケナウ、モノヴィッツの3つの強制収容所がこの地区に建設され、このうち第三収容所モノヴィッツは、ユダヤ人労働者を用いた工場が併設されていたために連合軍の空爆目標となったほか、大戦末期にソ連軍によって破壊されてしまったため現在は残っておらず、現存するアウシュヴィッツとビルケナウをもって「アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所」という呼び方が定着しています。


★第一収容所アウシュヴィッツ

第一収容所となるアウシュヴィッツは1940年5月20日、ドイツ国防軍が接収したポーランド軍兵営の建物をSSが譲り受け開所したもので、約30の施設から成っており、この周囲の収容所軍を管理する基幹収容所として機能しました。
もともと収容所として建設されたものではないので規模も第二収容所ビルケナウに比べると大きなものではなく、後に建設された施設も比較的堅牢でまともな建物です。
ソ連兵捕虜、ドイツ人犯罪者や同性愛者、ポーランド人政治犯を主に収容し、アウシュヴィッツを統括した親衛隊中佐、ルドルフ・ヘス(ルドルフ・フェルディナント・ヘス)の自宅もこの施設にありました。(よく混同されますが、「ルドルフ・ヘス」として表記されるナチ副総統のルドルフ・ヴァルター・リヒャルト・ヘスとは血縁関係のない別人です、ドイツ語読みにすると「ヘス」の発音も異なり綴りも違います)
ヘスは戦後裁判で有罪となり、このアウシュヴィッツの中で絞首刑に処されましたが、その処刑台が現在も残っています。



最初のガス室もこの施設内に建設され、後に強制収容所管理のための施設になりましたが、現在はガス室として復元され展示されています。





ガス室内部。
この場所は、下の写真の構造図「C」(右上の部屋)にあたる場所で、復元された現在が右、1942年当時は左の形であったという説明になっていますが


現在上の実写写真奥には出っ張りがあって、出口が設置されているのが見えますが、当時はこの部屋に出口がなかったことがよくわかります、つまり、入ったが最後生きて出られない場所だったわけです。
唯一の出口は「C」左側にある出口ですが、これは出口というより死体の搬出口で、図に書かれている線は死体搬出の為のレールです。当時は直接処理室とつながっていたことがわかります。
この先には効率よく死体を処理するための焼却炉がありました。



天井の穴は効率よく殺すために使われた毒ガス「ツィクロンB」を投げ込むための穴で、この穴から「シャワーを浴びる」と騙されて入れられた人々へガスが投げ入れられました。



公開されていない場所にあるので盗撮写真みたいになってますが、驚くべきはこのガス室のすぐ近くに司令官ヘスの自宅があって(写真奥左側にちらっと見える建物)


ヘスはここに家族とともに住んでおり、妻は虐殺の事実を知らなかったと述べています。
戦争は感覚を麻痺させるものなんだなとよく分かる風景です。

収容所の建物内部は展示博物館になっています。

これが殺人ガス「ツィクロンB(Zyklon B)」の空き缶。
もともとは殺虫剤として開発されたものですが、ここで大量虐殺に使われました。
ツィクロンはドイツ語であり、英語に直すと「サイクロン」を意味するので、今でも虐殺被害者であるユダヤ人はこの単語に対して過敏な反応をすることもあると言われます。


虐殺されたユダヤ人は所持品はもちろん、再利用可能な金属、毛髪や義足までもが回収されてナチスの資源や財源になりました。(所内には大量の毛髪も展示されていますが、撮影不可のエリアにあります)。






ポーランド政府は戦後、「ポーランドの強制収容所」と呼ばれることを嫌い、「ナチス占領下のポーランドにおける強制収容所」とするよう強く求めています。
ポーランドが虐殺に関与したかのような表現は避けてほしい、というのも、当時はポーランドにフランスのような傀儡政権があったわけでもなく、政府は亡命し、軍は地下で抵抗運動をしていましたから、ポーランドは純然たる占領下で、これらホロコーストの指示はすべてナチスドイツから出されていました。



しかしながら昨今、地元住人の関与についての議論があります。
収容所はその大きさから地元住人にも充分に見渡せる位置にあり存在を知らなかったわけはなく、そればかりか収容所が地域経済と密接な関係にあったことなども明らかになってきており、例えば、収容所で必要な品は近辺で購入されて収容所まで届けられ、地元の女性は家事を手伝うなど収容所との交流があったとされています、SS将校は地元の居酒屋の常連客となり、その支払いにはユダヤ人から奪われた金品が使われたことはまず疑いがありません。
また、多くのポーランド人がユダヤ人をナチスに引き渡しており、ポーランド人がまったくホロコーストに関与しなかったのかといえば疑問が残る、というものです。


ですが、占領下のポーランドではユダヤ人を匿おうと支援するいかなる行為も死刑相当の罪とされ、ある家に身を隠したユダヤ人が発見された場合、その家に住む家族全員が死刑に処されたほどです。
これはヨーロッパの被占領地域において最も苛烈な法律で、そのような罰則が必要になるほど、多くのポーランド人がユダヤ人を支援していたことを反映しているとも言えます。

この状況下において、命をかけてユダヤ人を救う、そこまでできた人がどのくらいいたでしょうか。
すべての罪は戦争と狂った国家にあります、ポーランド人も戦時下にあって生きていく為だったのです、罪を追及してもしかたのないことでしょう。


(円錐の中に収められているのは、ここでなくなった人の遺灰です)



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