2016/08/11

ポーランド⑥ 聖マリア教会と聖レオナルド聖堂

★聖マリア教会

クラクフ旧市街広場はクラクフの実質中心にあたる場所でして


シンボルともいえる聖マリア教会が特徴的です。

これは1222年に建造されたものと言われていまして、左右の尖塔の高さが違うのは、兄弟の建築士が競ってふたつの棟をたてたものの、負けそうになった側が片方を殺してしまったからだ…という話もあるそうです。

クラクフの名物のひとつに、「ヘイナウ・マリアツキ」(聖マリアのトランペットコール)というものがあります。
一時間おきに、この尖塔の上からトランペットが吹かれて時報のかわりになっているんですが、これには歴史があって、かつて、クラクフにモンゴルが攻め行った際、この尖塔から危機を知らせるためにラッパ吹きがトランペットを吹いたそうですが、敵に発見されて演奏中に矢で狙撃されてしまいました。
この事柄から中世よりずっと風習として続いているんだそうですが、演奏中に死んだラッパ吹きを忍んで、この時報も、演奏の途中で突然止まります。



最後には手を振ってくれたり。
余談ですが、このトランペットの音楽、過去二回だけ、「聖母の涙」という曲になったことがあります、一度はポーランド大統領レフ・カチンスキ夫妻が飛行機事故で急死した翌日の2010年4月11日、そしてもう一度はポーランド人が愛してやまない、ポーランドが生んだ偉人、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世の帰天(逝去)の日である2005年4月3日です。


ヨハネ・パウロ二世はポーランド出身の第264代ローマ教皇(在位:1978年10月16日 - 2005年4月2日)で、至上初のスラブ系教皇、もちろんポーランド初の教皇です。
冷戦末期において、世界平和と戦争反対への呼びかけと、呼びかけだけにとどまらない数々の平和行動を実践し、一党独裁にあった母国ポーランドを初めとする民主化活動の精神的支柱としての役割も果たしました。
また、「空飛ぶ教皇」の異名を持ち、世界100カ国以上を訪れ、各国で宗教の枠を越えて世界平和の祈りを捧げた人物としても知られています。


教皇として初めて日本を訪れた際には広島と長崎を訪問し、日本語「戦争は人間のしわざです」「戦争は死です」、と演説する姿は時折日本のテレビでも紹介されます。
自身が第二次世界大戦で焦土と化したポーランドの出身であることから、徹底した反戦主義、核の放棄を訴え続け、2003年、イラク戦争の最中にアメリカのジョージ・W・ブッシュ大統領が度々「神の加護を」「神の祝福あれ」としきりに「神」を引用して戦争を正当化していたのに対し「神の名を用いて殺すな」と不快感を示し、「イラクでのこの戦争に正義はなく、罪である」と批判していたことも知られています。

神学と同時に哲学の博士号を持っており、世界平和に対するその姿勢から、カトリック教徒のみならず、世界中のありとあらゆる層から尊敬を集めた人物で、私もプロテスタントではありますが、ヨハネ・パウロ二世は心の底から尊敬しています。

ヨハネ・パウロ二世はクラクフの教区司祭としてそのキャリアをスタートし、クラクフ教区の大司教であった時代のコンクラーヴェによって教皇に選出されました。
つまり、クラクフの人々にとっては特に重要な人物でもあるわけです。

余談ですが、先ほどの聖マリア教会。
この内部の聖堂には、ものすごくでかい宗教画が折りたたまれて設置されておりまして、毎日、シスターが広げて見せてくれたりします、すごい綺麗です。


★共産主義時代の建造物
昨今のポーランドは近代化が進んでいるんですが、ついこないだまでは共産圏の「鉄のカーテン」の内側にあった国家であるだけに、国の随所に「ああ、これ共産主義時代に建てられたんだろうなぁ」というような建造物も残っていたりもします。






もっとも、その時代をあんまり今のみなさん好きじゃないみたいで、積極的に残そうなんてことはほとんど考えてないらしく、どんどん近代的な建造物に置き換えられています。
私が行った時点でもそこいらじゅうで工事をしておりました。
個人的にはこれはこれで味があって好きなんだけど。

★聖レオナルド聖堂(Church of St Leonard)

クラクフの隣の県、マウォボルスカにある世界遺産のひとつです。


実際に世界遺産登録されているのは「マウォポルスカ南部の木造聖堂群(Drewniane kościoły południowej Małopolski)」といって、このほかにも5つの聖堂が残っているんですが各々が結構離れていて、リプニツァ・ムロヴァナにあるここに行ってきました。

聖堂が木造であるという特色ある中世後期の建築もさることながら、戦乱の歴史を辿ったポーランドにあって木造建築の聖堂が残っていることも珍しく、「現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠」という理由で世界遺産登録されています。



この教会の周囲には広大な墓地が併設されているのですが


葬られた人の没年を見ると、やはり1938~1945年はすごく多いです。
ポーランドの歴史を垣間見る気がします。

0 件のコメント:

コメントを投稿