2016/08/11
ポーランド⑤ ゲットーとシンドラー
クラクフ(Kraków)は、ポーランドの中でも最も歴史のある街のひとつで、17世紀初頭にワルシャワに遷都するまではクラクフがポーランド王国の首都でした。
13世紀にはモンゴル人が侵入し、いったんは破壊されますが、その復興の課程として14世紀頃のカジミェシュ大王は商売のうまいユダヤ人を積極的に招き入れ、クラクフの一部を自治都市として彼らに提供し都市自体も豊かになっていきました、それがゆえにクラクフは国内でも多くのユダヤ人が居住する街となったわけですが、第二次世界大戦が勃発してナチスドイツがクラクフを占領すると、この街にはホロコーストの嵐が吹き荒れることになります。
ドイツによってポーランド総督に任命されたナチスドイツの将校、ハンス・フランクは、ポーランドを「ヴァンダル(蛮地)」と呼んで軽蔑しきっていたと言われており、単なる奴隷供給源ほどにしか見ていなかったばかりか、多くのナチスの将校と同様ユダヤ人を猛烈に嫌っていたと言われています、こんな彼はクラクフのベベル城に居室を構え、ポーランドからのユダヤ人排除を開始します。
「ユダヤ人はこの町から放逐しなければならない。なぜならば、ヒトラー総統より名誉あるご指名を受け、帝国高位の官庁の所在地となったこの町に何千人ものユダヤ人がうろつき回り、住居さえ構える事など我慢できぬことだからだ。」
(1940年4月12日にフランクが宣言したと言われる)。
労働力になるとみなされるか、逆に病気などで動けない等の理由があるか、そうでないユダヤ人はクラクフより追放されましたが、このとき追放された者はまだ幸せだった方で(もっとも、ポーランド内の他の地区へ移送されたので、その先の運命は過酷なものだったに違いないですが)、残ったものは「クラクフ・ゲットー」と呼ばれる地区へ隔離されました(その後、ほどんどのユダヤ人は強制収容所へ送られるか、射殺されました)。
ゲットーであった地区へ行ってみたのですが、現在もゲットーに使われた建物は多く残っていて、当時の面影を残しています
1943年までにゲットーから強制収容所への移送が行われ、クラクフ・ゲットーは解体されていますので、当時このゲットーを囲んでいた壁はほとんどが破壊されてしまっていましたが、痕跡としてほんの一部、数メートルだけ、当時の壁が残っていました。
クラクフ・ゲットーの存在意義のひとつが「労働力の供給源」であって、クラクフには多くのドイツ系工場などが作られ、このゲットーを労働力の供給源にしていました、その中でホーロー等の金属加工を主目的とする工場を営んでいた人物の一人が、かの有名なオスカー・シンドラーです。
シンドラー自身は、正直あまり褒められるような人格者でもなく、その生涯を通して人間の欲にも正直で、享楽的で、長いものに巻かれながら、時には裏の商売にまで手を染めて金儲けをしていた人物です。
しかし、自分の工場で働いていたユダヤ人たちにホロコーストの魔の手が忍び寄ったとき、その人脈と財力を駆使して1200人ものユダヤ人を強制収容所から救ったのはあまりにも有名な話で、何が彼を変えたのか諸説ありますが、あれほど金に執着した人物が、戦争末期ドイツに戻ったときにはすべての財産さえ使い果たし、1ペニヒも持っていなかったといいます。
シンドラーの工場は、このクラクフ・ゲットーの至近にあり、現在は「シンドラー博物館」として一般的に公開されています。
ゲットー跡地から歩いて15分か20分くらいだったと思うんですが、実際には鉄道路線を迂回して歩かなくてはならなかったからで、当時線路は横切れたはずですから、実際は徒歩5分くらいの距離なんではないかと思います。
映画、「シンドラーのリスト」を見たことがある人には見覚えのある建物ですね。
内部は予想外に建物内部の博物館としては展示が充実していて、たぶんじっくり見て回ったら2時間や3時間は軽く必要な物量です。
残念ながらこれは再現されたものですが、オスカー・シンドラーの執務机なども展示されています。
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