2016/08/11

ポーランド⑮ 帰国

そんなわけで、色々興味深いところを巡ったポーランド、ブログに書き切れない場所を見ていろいろな経験をして参りましたが、いつまでもポーランドにいるわけにもいかず、帰国することになりました。

ポーランドはおそらくヨーロッパで最も治安がいい、と言っていいと思います。プラハやブダペストでもそれなりに治安の良さは感じましたが、パリやローマに比べたら雲泥の差です。
物価も安く人々も温和なので、旅行にお勧めできる国ではありますが、まだ日本からの移動手段が限られているのが難点かな。

ワルシャワ・ショパン国際空港はさすがにショパンの国だけあって、自由に弾けるピアノが設置されております。


ちょうど、私がポーランドに滞在しているとき、フランスでテロがあったり、トルコでクーデターが発生しておりまして、



MP5とG36を装備したポーランドの治安部隊が国際空港の警戒に当たっておりました。


たいへんいい国だったので、去るのはとても残念ですが、ぜひまた来たい国のひとつです。



眼下に広がるワルシャワの街、遠くに科学宮殿。さらばポーランド、またくるよ。

アムステルダムで乗り換えるため、いったんオランダ王国に再び舞い戻ります。
機内では軽くサンドイッチのサービスがありました。


航空会社はKLMオランダ航空、さすが自転車王国オランダでありまして、コップにも


スキポール国際空港で、乗り継ぎまでの数時間を過ごします。
しかし、ハブ空港として有名な空港だけあって、乗り継ぎの待合エリアはとても快適。





カジノとかもあります、行きませんけど。


さすが自転車王国、待合室の椅子にもペダル(漕ぐと携帯に充電できます)



オランダが生んだアイドル(笑)ミッフィーちゃん。お土産には人気です。


そして、成田行きKLMに搭乗。




機内食は…なんだか席の位置が非常に悪い位置にあって、選べる機内食はすべて売り切れになってしまい、機内食を選ぶことができず…、




二回出たんですけど、正直あんまり美味しいものでもなかったです。

ワルシャワを出てやっぱり半日以上、成田空港へ到着。


ポーランドは朝には13℃とか余裕で、非常に過ごしやすかったのですが…。

地元に帰ってみれば余裕の30℃越え。
日本は暑い…。


いろいろと体験したポーランド、機会があったらぜひまた行きたい、今度はグダニスクの方を巡ってみたいなぁ。

ポーランド⑭ ワルシャワその2

★ワルシャワ蜂起博物館


大戦末期の1944年、ソビエトのバグラチオン作戦によってドイツ軍は戦線と占領地を失い、徐々に敗色を濃くしていました。
赤軍占領地域がポーランド東部一帯にまで及ぶと、ソ連はポーランドのレジスタンスに蜂起を呼びかけます。
7月30日には赤軍はワルシャワから10kmの地点まで進出し、占領も時間の問題と思われていたため、ポーランド国内軍はそれに呼応するような形で、8月1日、ドイツ軍兵力が希薄になったワルシャワで武装蜂起することを赤軍と打ち合わせました。

ところが直後、ソ連軍はドイツ軍の猛反撃を受けて進軍を停止します、このことを知らなかったポーランド国内軍は着々と準備を進めていましたが、ソ連は進撃の停止を知らせなかったばかりか、ラジオでは蜂起を呼び掛ける放送を流し続けていました。


8月1日17時ちょうど、約5万人の国内軍は蜂起を開始。兵士達は橋、官庁、駅、ドイツ軍の兵舎、補給所を襲撃しますが、ソ連軍は川の反対にいて補給可能な位置にいたにもかかわらず、静観を続けて支援を行いませんでした。

逆に、即日報告を受けたアドルフ・ヒトラーは、これをみて、赤軍が国内軍を支援する気が全くないと判断し、蜂起した国内軍の弾圧とワルシャワの徹底した破壊を命じます。

圧倒的な物量の前に、ポーランド国内軍は壊滅を余議なくされました。
ソ連はイギリスやアメリカの航空機に対する飛行場での再補給や、西側連合国による国内軍の航空支援に対し同意せず、完全に見殺しにしたのです。


これは、ポーランド国内軍を指揮していたのは初期のポーランド侵攻時に国外へ亡命したポーランド亡命政府であり、ソビエトとしてはドイツに勝った後にポーランドへ傀儡政権を立てる予定で、もともとドイツとソビエトに追われて亡命した亡命政府は邪魔であったのではないか、という説があります。
つまり、わざと蜂起を促し、わざと全滅させようとしたわけです(実際、東欧革命まではソビエトの傀儡政権がポーランドを支配します、ブログで前述したように亡命政府は東欧革命後にポーランドに戻り、現在の政府となっているわけです)


その後、ドイツ軍による懲罰的攻撃によりワルシャワは徹底した破壊にさらされ、蜂起参加者はテロリストとされ、レジスタンス・市民を合わせて約22万人が戦死・処刑で死亡したと言われています。

鎮圧後約70万人の住民は町から追放されました。また、蜂起に巻き込まれた約200名のドイツ人民間人が国内軍に処刑されたと言われていおり、国内軍は1万6000人、ドイツ軍は2000名の戦死者を出したとされています。

赤軍は1945年1月12日、ようやく進撃を再開。1月17日、廃墟と化したワルシャワを占領、その後、赤軍はレジスタンス幹部を逮捕し、自由主義政権の芽を完全に摘み取りました。

現在でもポーランド人なら知らない人のいない事件です。
蜂起の起こった8月1日17時は「W」と呼ばれ、現在でも毎年8月1日の同時刻にワルシャワではサイレンが鳴り渡り、市民がその場で動きを止め、各自で1分間の黙祷を捧げるのが恒例行事となっています。

この事件を忘れないよう作られた施設がワルシャワ蜂起博物館です、中ではワルシャワ蜂起から、現在の戦争まで、さまざまな戦いの歴史に関する展示が行われています。





★聖十字教会


ワルシャワ市街にある教会で、ショパンの心臓が埋め込まれていることで有名です。


1849年10月17日パリで亡くなったフレデリック・ショパンは、自分の死後、心臓をワルシャワへ戻してほしいと生前に望んでいました。
姉のルドヴィカはフレデリックを看取った後、葬儀の前に取り出した心臓を、祖国ポーランドのワルシャワへ持ち帰りました。
第二次大戦が発生するとこの心臓は一時期別の場所に移されたそうで、その時に柱が開けられています、アルコール漬けの瓶に入った状態で原型をとどめていたそうです。


この奥にショパンの心臓が眠っています。

★無名戦士の墓


大戦で亡くなった無名戦士を弔う施設です。つねにポーランド軍の兵士3人が警備についています。
本来なら真正面から見られるんですが、前の広場で軍が式典をやっていまして


横からしか見ることができませんでした。
ある時間になると、この兵隊は交代するのですが、ロシアやハンガリーの衛兵のように、規則正しい動きでやってきて、交代して、去ります。






★ワジェンキ公園


ショパンの像があることで有名な、ものすごく広い公園です。

観光のみなさんはこのショパン像目当てに来るみたいですが、世界史的な視点から見ると、公園の入口にある像もまた興味深いのです。


ビウツスキ元帥像。
ユゼフ・ピウスツキ(Józef Piłsudski:1867年12月5日 - 1935年5月12日)はポーランド共和国の建国の父にして初代国家元首、国防相、首相。ポーランド軍創立者にして元帥であった人です。
ここでいうポーランド共和国とはポーランド第二共和国のことで、ドイツ帝国やオーストリア=ハンガリー帝国に占領されていたポーランドを独立に導いた人物です。
政権掌握から亡くなるまでナチスドイツに対して警鐘を鳴らし続けましたが、彼の警告通り、没後にポーランドはドイツに占領されます。
余談ですが大変な親日家としても知られ、兄はアイヌ研究の第一人者です。
ピウスツキ家の家系はポーランドではすでに絶えていますが、兄ブロニスワフの子孫にあたる家系が日本にだけいまだにおられるそうです。

ちなみに後ろに見えるフェンスは大統領官邸でベルヴェデル宮殿と呼ばれています。



あたりまえですが警備が厳しいです。

公園の中にあるワジェンキ水上宮殿


ポーランド・リトアニア共和国の最後の国王スタニスワフ2世アウグスト(在位:1764年 - 1795年)が作った夏の離宮で、彼はこの公園自体を作った人でもあります。


もちろん、この離宮もワルシャワ蜂起によって一度破壊されているので、これは復元されたものなんですが、今となっては屋根にクジャクが巣を作る平和な光景に。


…っていうか、クジャクってあんな高いとこまで上がるんだなー。

公園内にはリスがうろちょろしてまして、お菓子とか投げるとフツーに寄ってきます。


リスってもうちょっと警戒心の強い生物ってイメージだったんですが。