2016/02/17

北陸の郷愁

先週末、またもや能登へ行って参りました。

車で往復1220キロ、車中泊を含めた強行軍でしたが、帰ってきた今、明日にでもまた行きたいなぁという感覚があります。
なんていうんでしょうね、一言で言うと「郷愁」みたいなもんだと思います。

私のルーツは鳥取県にありまして、日本海側ではありますが北陸とはまったく無縁、そもそも私は関東で生まれ育って、一時期鳥取にいたことはありますが、北陸とはまったく無縁の人生でした。

その私がなんで北陸に魅せられてしまったのか、いまだによくわかりません。

三浦半島の魅力に出会ってこの地を終の棲家と決めるまで、わりと本気で北陸への移住を画策していた時期もあります、氷見市の市役所と交流してポスター貰ったこともあるくらいで。

ちょっと話は変わりますが。
いずれブログに書こうと思いますが、昨年末に2テラバイトに及ぶデータストレージを吹き飛ばしてしまい、悪いことにバックアップ用ドライブを一時的に別に使っていたために、過去のデータをほとんど失ってしまうという事態に遭遇しました。
資料類などなど重要なデータ根こそぎ失ってしまったのは痛いんですが、調べて作り直せるものはまぁまだどうにかなります、半分頭の中にありますしね。

失って困ったのは、過去の写真です。

こればっかりは、もう取り戻すことができない。

そこで、データをサルベージしようとあの手この手使ってみたんですが、まずWindowsからドライブとして識別させることすらできない壊れ方だったので、Linux上で動作する強引なツールで装置の中身を根こそぎ抜くという強引な手段を講じることにしました。

結論から言うと、サルベージするのに数週間というとんでもない時間がかかったわけですが(しかも全部取りだせたわけではないですが)写真は大部分引き上げることができました。

写真を再構成して引き上げていくと、出るわ出るわ北陸の写真。

いったいいつから俺は北陸をうろついているのかなぁと興味も出てきたりして。

デジタルの世界になると、ある時期から(つまりデジタルカメラ普及期でこの規格が常識的になってから)写真を「きちんとした環境で」撮影してさえいれば、「EXIF」という情報が残ります。

写真に残るこの情報には、撮影日、撮影したカメラの情報ほか、最近のものになると撮影地の緯度経度まで記録されているので、これがいつ何で、どこで撮影したものかが分かるという寸法です。

写真のいくばくかはこの情報が壊れていましたが、時系列を思い出せば、いつ撮影したものかが前後関係で分かってきます。
ものによっては写真に写っているもので思い出すこともできますが、困ったことに北陸の写真になってくると、高岡の居酒屋で「常連」になってしまうほど北陸に行っていた私には「これがいつの写真」なのか判別に困ってしまうという状況。

EXIFを頼りにいろいろ探っていくと、どうやら私が最初に北陸に足を踏み入れたのは1995年頃のようです。

その時は多分、ノリで行ってみたとかそういう状況で、あまり思い入れもなかったような気がします、写真もあんまり残っていません。
と、いうのは、デジタルカメラのちょうど黎明期がその頃で、私は家電業界の人でしたのでデジタルカメラを持っていましたが、フロッピーディスク(しかも、多分、フロッピーを知る人でもあんまり知らないようなディスク)に記録するような、きわめて画素の少ない奴、今データとして残っていませんし、この頃デジタルカメラを頻繁に使う人もそう多くなかったと思います。

携帯電話には当然カメラがありませんでしたし、写真を撮れる携帯電話は2000年のシャープ製端末を待たねばなりません(実際には前年に京セラや三菱がカメラ付きPHSを売り出しているんですが、あんまり普及しませんでしたね)、スマートフォンなんてまだまだ先の話です。

またちょっと話が脱線しますが。
私はわりと少年の頃から鉄道好きで、結構昔から「乗り鉄」をやっていました、そんな課程で2001年の9月に北陸に向かっていますが、この時の写真あたりから北陸の写真が急増します。

乗り鉄には常識ですが、JRの路線てのは距離を乗れば乗るほど、距離単価が安くなる仕組みになっています。つまり、往復で一度降りてしまって帰ってくるよりも、途中下車が可能な距離であれば「一筆書き」にしてしまった方が安く上がるケースも出てきます。
まして、乗り鉄ですから、少しでも長く鉄道に乗っていたいわけで、どれだけ遠回りできるかというのを考えて乗ったりするわけです。
この時もそうでした。

行きは関東から京都に向かい、京都から北陸を目指します、そして帰りは越後湯沢を回って帰ってくるループのルートです。枝分かれする線には別途料金を支払います。
たとえば(鉄道路線図見ればわかりますが)、このルートだと山科~京都のたったひと区間は「一筆書きにならない」ので、この部分だけ別途料金を払って京都に立ち寄るとかやってるわけです。

京都から特急サンダーバードで北陸へ向かい、津幡からの別途料金を支払って和倉温泉まで行っています。

和倉温泉は能登半島の中腹、七尾市に位置する温泉街です、今は結構綺麗になってますが、2001年当時は結構枯れてた印象(笑)。
温泉に浸かってカニとか食べた気がしますが、この路線、北陸本線(当時)の津幡駅から分岐して能登半島へ向かう「七尾線」の沿線にあります。
実は七尾線というのは津幡から和倉温泉駅のひとつ手前、七尾駅までの路線で、厳密にはたったひと駅だけ、第三セクター「のと鉄道」に乗り入れる形になっているわけです。

ここで鉄の血が騒いだんですねきっと。「この、のと鉄道の終点まで行ってみたい」

能登半島のもっとも奥まで行ってみたい。

この時はそのまま帰ってきてしまったのですが、これがおそらくはじまりです。

この時は漠然とそう思っていたんだと思いますが(実際、そのあと東北に出かけたりしていますので)、翌年になってふと思い出したんですね、ああ、俺、あそこに行ってないじゃないかと。

やろうと思うといてもたってもいられない性格なもんで、2002年の7月に再び能登を訪問していますが…なんといっても能登半島をナメきってたというか。
日本地図見るだけだとイモのしっぽのように見える能登半島ですが、そこを通っていたのと鉄道は最長の第三セクターと言われていたほどで、能登半島の奥行きというのは想像以上に遠いのです。

本当に行って帰ってくるだけ。

それでも、能登半島の最深部の駅、のと鉄道終点「蛸島」までは到達しました。


実は、これはインチキなのです。
このとき、実は友人を連れて行ったのですが、こいつがまぁ、車輪の乗るとこならどこでも走るような超絶ラリードライバーでして。
七尾線で七尾まで到達するや、レンタカーを借りて飛ばしてもらったのですよ。
そうでもしなきゃ、昼前についておいて能登半島の先端まで行くのはダイヤ的に不可能なのです。
行けた、達した…これでは、とてもそう言えない。

再び自分の足で、レールの上をこなきゃならない。

この後に、何度かトライするのですが、仕事の都合や金銭的問題でなかなかうまくいかず、それでも何度か北陸に向かいました。
それこそ金曜日、会社の帰りに夜行に飛び乗って北陸に向かったりもしてまして、というか、会社が秋葉原だったので家に戻って出るのが面倒で、そのまま今はなき「急行能登」に飛び乗って北陸に向かったものです。
今はもうない急行ですが、上野を出発して金沢まで夜通し走ってくれるありがたい急行で、車両は普通の特急車両、寝台なんてもんはありません。

この頃、ベースキャンプとして利用していたのが「高岡」です。

実は、蛸島のほかにどうしても行っておきたかった「能登半島の終点」がもうひとつありまして。
それが、高岡から出ている「氷見線」の終点、氷見。
こちらは実に短い路線なので高岡から一時間かかりませんが、その風景も素晴らしいし、氷見の街には情緒があるしで、一度訪問してから病みつきになってしまったのです。

七尾線方面に向かうにせよ、氷見方面に向かうにせよ、ホテルも飲み屋もあるし位置的にもよく、高岡は特急や急行も止まります。
そしてなにより、富山や金沢ほど都会ではないので居心地がいい。(後述しますが、実に残念なことに、新幹線のせいで高岡もいまやクローン首都圏の匂いがぷんぷんするようになってしまい、昔ほどの情緒はなくなってしまいました…)
多分、この時期2002年から2003年にかけて、高岡に20回以上行っているはずです。
ただ、「蛸島は遠い」というインパクトを喰らってしまっていることや、当時、緊急時に私がいないとどうにもならない職種にいたこともあって、万一月曜日の朝礼までに東京に戻れないとまずい、ということから、どうにも蛸島行きを躊躇していた感じがあります。

そしてはじめて蛸島の地に降りたってから一年後、2003年の7月に盆休み代休を取って、ついに蛸島アタックをすることになります。

もう、この時期にはすっかり北陸の魅力に取りつかれていましたね。

この時期に前後して、高岡をベースキャンプに、富山から福井までのあらゆる枝線に乗り、敦賀から直江津までの北陸線+氷見線、全線全駅に下車するということまでやっています。
降りてみて「なんにもねーーー!」とか叫ぶのが楽しかった駅もあります。いや結構ありました。
南今庄駅なんて誰が乗るのかね、とか。

閑話休題。

会社の終業後、今はなき寝台特急北陸に飛び乗り、一路北陸へ。

金沢で七尾線に乗り換え、七尾で念願の「のと鉄道」に乗り換え


長い長い路線をひたすら進んでついに


今度こそ、レールの上をやってきたわけです。


この時の達成感というか感動というか。
能登の素晴らしい風景に降りたったのは俺一人でしたが(まぁ、それだけ過疎路線ではあったわけです)、この体験がトドメだったかもしれません。

以降、今日に至るまで何度も何度も北陸に足を運びました。
今は来るみたいですが、能登ってのは当時ぜんぜん台風の来ないところで(北陸全般にあんまり聞かなかったような)、夏は大雨何度かくらったくらいでほとんど大事にはならなかったものの、冬になると能登はともかく北陸沿岸が大変で、

凍結してドアが壊れちゃう

とか

吹雪でスーパー遅延

なんてのはまだいいほうで

雪に埋められて寝台特急に缶詰12時間

なんてこともありました。
(写真は止められた沼田駅、寝台特急北陸は夜明けには終点金沢に到着する列車ですが、群馬県内のこの駅で夜明け。本来ドア開かない駅ですが、ドア開けるから出ていいよと…車掌さんが自腹でパン買ってきてくれました。ちなみに前に止まっているのは同じく雪に止められた青森行きの特急あけぼの…この寝台特急ももうありません)

まぁ、こういうのも楽しい思い出です。

三浦半島に引っ越し、今の嫁と出会って結婚してからしばらく行っていませんでしたが、嫁ひきずってやっぱり北陸につれていったです。

北陸病にかかるとですね。

関東に8番ラーメンがないことに納得いかなくなる。



秋田で稲庭喰うと氷見うどん思い出すようになる。



こんな感じのカマボコが駅のゴミ箱に捨ててあっても驚かなくなる。
(結婚式帰りの集団みたいなのがとか通ると結構捨ててある…)


バターサンドとか余裕で菓子パン



ますのすしについてるナイフの正しい使い方を理解する
笹ごと切るのです



まぁ、ちょっと冗談はさておき。

嫁と結婚してから、すでに何度も北陸を訪れましたが、ついに新幹線が開通してしまい、北陸本線の大部分は第三セクター化、氷見線は孤立した路線になり、廃止の噂も流れています。
かつての高岡駅も今は「山手線の駅かよ」、というような立派な建物になり、駅前の風情あった建物も壊され、近代化されていきました。金沢はもともと都会でしたが、一階に8番ラーメン、上に紅虎餃子のあった風情ある富山駅はもうないし、福井駅なんて、俺間違った駅に来ちゃったんじゃないかと思ったほどで。

幸い、氷見にはいまだに昔の風情がなんとなく残っていますし、地元の人にとってはとてもありがたいことだと思うのですが、あの北陸の風情に魅せられた身としては、正直な感想は、残念。

鉄道の切符を握って北陸じゅうを歩きまわった私も今や家庭人となりまして、嫁を連れてあの感動の出発点、蛸島にも行きました。

かつて、何度も降りたっては、能登の空気を背伸びして吸いこんだあのプラットホームも


今はひっそり草に埋もれていました。




※(2005年4月1日をもって、のと鉄道穴水-蛸島間は廃止されました)

それでも私は北陸が好きだし、また行くんだろうな、願わくばこれ以上、東京みたいな無粋な世界に汚染されずにいて欲しいと…これ以上北陸が壊れないでいるといいなぁ…。

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