2016/03/11

震災から5年。その日俺は。

東日本大震災から今日で5年。
もう5年も経ったんだなぁという気がします、ついこないだだったような気が。

今日は金曜日なので、恒例カレーを喰いながら、ふと、そういえば震災の日もカレーを喰ったな、金曜日だったなとか思い返しまして。
写真も残ってました。


ふと5年前の今日を、手元の記録をもとに振りかえってみようかなと思い、ちょっとパソコンの中を漁ってみました。

2011年3月11日、俺はその当時、東京都港区の営業所から横浜へクラウドシステムのプレゼンテーションに行っておりました。
ちょっと規模の大きな案件だったので時間もかかり、直帰営業になりそうだったこともあるし、金曜日で翌日休みでしたから、嫁と横浜で待ち合わせをして帰ろうかなと、嫁は品川に勤務していました。
もっとも、入籍するのはこの年の6月ですから、当時一緒に住んではいましたがまだ結婚してなかったんですけどね。

ライフログによると、13:17に東京駅八重洲口にいて、14:20には横浜駅に到着しているのが確認できます。

すぐ客先に向かい、客先で資料を並べたとこだったと思うんですが。

ぐらぐらっときたんですよね、このとき。
結構大きくて、訪問先もIT企業でしたし、オフィスにあったサーバラックがガチャンガチャン揺れたのを覚えています。
顧客に促されてちいさなテーブルの下に入りましたが、とにかくプレゼンどころではなくなりました。
なんせ、客先でツイッターにPOSTしてるんですから、もうプレゼンどころじゃないすよね(笑)
(※ 以下、斜体の文字は当時のPOSTの記録です)

14:49:53--「いつまで揺れるんだ!」
14:50:18--「ひでえ地震だなっ!」
14:50:37--「こんなの初めてだぞ!」

「また来週来ますわ」なんて笑ってビルを出たわけですが、とにかく直帰の時間でもないし、一度東京の本社まで戻ろうと駅に向かったんですな。
今思い返すと、この後の混乱で案件は進まず、それでも受注しましたが受注に1年近くかかった記憶があります。

15:09:30--「宮城震度7?なんだそりゃ!」


京浜急行の駅についてびっくり。


まっくら。

駅前にはビルから出てきた人がたくさんいました。



京急が入場させてくれたので、ぷらっとホームに上がろうと横浜駅に戻りましたが、あいかわらず停電は続いていて、いつ復旧するのかわからないけどホームに戻ることに。


15:48:11--「津波警報のためホームから降りるなとのこと」

横浜駅は通路が半地下のため、津波があると水に浸かってしまいます。
この放送を聞いたあたりで、ことの深刻さが分かってきた気がします。
日本人は地震慣れしているので、横須賀だと地震があったりしたときアメリカ人が大騒ぎしたりするのをほほえましく見てたりするんですが、さすがに今回はちょっとオオゴトになってきたなって気がしてきたころ。
それでも、かつて中越地震があったとき、秋葉原(当時は秋葉原に勤務していました)から歩いて帰った記憶もあるので(当時は町田に住んでいたので、始発電車まで小田急線沿いを歩きました、実質、狛江のへんで始発は動いたので、それに乗って帰りましたが)、まぁせいぜい「大変なことだなぁ」程度の認識だったかもしれません、このときは。

そもそも今にしてみれば津波の脅威はよく知っていますが、当時は「まさか横浜駅が浸かるような津波なんてありゃしないだろ」くらいの感覚だったと思います。

浸かるよ、余裕で。

15:53:34--「駅から退去指示」

京浜急行は復旧の見通しが立たず、今日の運転を見合わせます。駅からは退去しろと指示があり、駅を追いだされることになりました。
動くなと行ったり出ていけと言ったり、この時はもう情報がめちゃめちゃに錯綜してました。
戸部駅方面から線路を歩いてくる人さえいたので、どのみち列車は動かせないなとは思っていましたが。

この頃、余震が結構来ていて、そごう側の駅の外に出てみたら、駅近くを通る高速道路の高架が蛇みたいにグラングラン揺れていて、これは落ちてくる!とバスターミナル側に大慌てで逃げたりしています、結果崩れることはなかったようですが、いつ落ちてきてもおかしくない状況でした。

バスもタクシーも乗るのは難しいという構内放送で、本格的に避難を考えはじめたのはこの頃です。

横浜駅前はパニックの人であふれ、ここにいては別な危険さえあると考えるようになってきました。


16:12:46--「雨とかやめてくれ!」

この頃になると小雨が降り始め、気温も低かったために、まずどこかに腰を落ち着けようとしましたが、飲食店はすでに満杯で入ることもできません。
この時、職業病なのか、とにかく通信手段の確保だけはせねばならんということに思い至りました。
当時、おいらはXPERIAというスマートフォンを使っていましたが、某携帯電話の関連企業で働いていたこともあり、通信総量規制がかかっていることを会社のクラウド掲示板経由で知っていまして、通話はともかくTwitterなら繋がる、ということから、これがおそらくこの先の生命線になると、あわててヨドバシカメラに駆けこむと、電池式のモバイルチャージャーとエボルタをありったけ買い込んできました。

事実、まるでマシンガンの弾丸みたいにこの先電池を使うことになるんですが、これに思い至ったのは大きかった。
このあと(写真は後日のもの)電池そのもの手に入らなくなりましたからね。


17:15:22--「GMAILとTwitter以外全部だめだ」

ついに通話規制で会社とも連絡できなくなり、会社のクラウド越しに無事であることを伝え、電車が動いていない上、今日中の復旧も難しいので今日は戻らないことを書き込むと、さて、困った。
会社のある港区からも、自宅のある久里浜からも、ちょうど中間位置にいて、交通手段がない以上どちらにも行けない。

さぁ困った。

避難所の指示も二転三転してどうしようもないし、ホテルは電話かけまくっても当たり前でどこもあいてない(今日は営業を見合わせるというホテルもありました)。そもそも通信総量規制で通話もおぼつかない。

とりあえず落ち着かないと。

ということで、居酒屋探してしまうのがおっさん。

18:26:55--「もうこうなったらヤケ」



なんとか相席で座れる居酒屋に入り、一杯やりながら考えるわけで。
Twitterがつながるお陰で嫁とは連絡が取れたんですが、どうも会社のビルから出してもらえないようで、こうなると心配になるのが家に残してきた娘です。


娘といってもこの子ですが、子供のいない我々夫婦には実の娘以上に可愛がっておりまして、基本は布団の中でごろごろしてる子ですがこんな揺れだとどうなってるかわからない、おまけに家には大型の液晶テレビ等、倒壊の危険があるものがわんさかあるので、家が心配です、何か割れていたら、怪我するかもしれない。

しかも、twitterの情報で横須賀は停電しているとの話があり、電力のない暗い家でどういう状況になっているか…。

これは、もう、歩いて帰るしかない。

20:18:09--「さてお立ちあいだ、徒歩で三浦半島の踵、久里浜を目指します。行軍開始!」

PM 08:18 横浜駅近くの居酒屋を出て歩き始めます。

20:24:17--「ドンキホーテの脇、倒壊の危険性で通行止めだ、ちっ」

20:26:16--「なんだよfallout3かよ、倒壊の危険であちこちまっすぐ行けないぞ、核戦争後の地球かここは」


結論から言うと、横浜市金沢区の金沢文庫近くでフォロワーさんに拾ってもらうまで、このまま歩き続けるわけですが


どういうわけかGPSがまともに動作してくれず、現在位置がはっきりとしない上、GPSは大量の電力を喰うのであまり多用もできません。
Twitterは繋がったので、フォロワーに誘導してもらいながら移動しました。

20:30:36--「方角見失ったら最後だぞ、徒歩で行ったことのない道だし途中停電箇所が何ヵ所もある。」

20:47:50--「横須賀と書いてあるからこっち行ってみるか」




横須賀の市街には16号線が通っているので、究極的には16号線に沿っていけば横須賀にたどり着くだろう、という思惑で、16号線を追うことにしました。ただ、この看板にあるように横須賀に向かおうとすると16号から離れてしまうのです。

20:54:33--「横須賀の表示が明らかに横浜駅の方向指してるってどういうことだ!」



この近辺は道が複雑で、横浜在住のフォロワーに、とりあえずそのまままっすぐ行けと言われてそっちに進みます、この道、ぐんにゃりカーブして相鉄を越える道だったんですね。


一時的に16号ではなく方向指示通りに進み、16号とふたたび出会う地点まで進むことになったんですが、このとき自分がどこをどう歩いているのか分からず、ほとんどTwitterの誘導頼り。
横浜在住のフォロワーが多数いたし、奈良や佐賀のフォロワー、品川の会社からは嫁がGoogleMapを見て誘導してくれました。


川と京急越えたら16号に出会うと聞いていたので、誘導通りに吉野町近辺で16号に合流、地下鉄の駅は津波の警戒か防水板を設置していました。

21:44:55--「駅、封鎖」


PM9:44 吉野町駅を通過。

16号っていうのは、実はまっすぐ行っていなくて、何か所かで直角に折れ曲がっています。
誘導がなかったら直進してしまうところ、まさにここもそうでした。


川に沿って歩くとファミレスがあって、休みたいなぁと思ったのを覚えています、超満員でとても入れる状況じゃありませんでしたが。
この頃問題になってきたのが荷物です。
プレゼン資料、カタログ、モバイル機器類、当時私はかなり重量のある大型の営業鞄を持っていまして、これが二時間近く歩き続けるとかなり負担になってきました。

22:15:26--「このクソ重い営業鞄棄てられたらどんなに楽か」

22:17:54--「よく分かったよ、横須賀は遠いや」

22:18:43--「ちょっと足腰がきつくなってきた…」

当日は気温も低く小雨も降っており、この荷物がかなり体力を奪います。
そこで、途中のコンビニで、カタログ類、個人情報の入っていない資料、LANケーブル、コンセントからのチャージャー、ノベルティの保護ケース等々をゴミ箱に捨てます。
LANケーブルを不燃ゴミとかに捨てたけど、よかったのかな、緊急時なんでごめんなさい。

ただ、プレゼン資料ってのは鬼のように個人情報の塊で、こればかりは捨てることもできず、一時公園で燃やそうかと思いましたが、こんな日に焚き火したらどういう人が飛んでくるかわかりません(笑)

この資料が、なんだかんだで結構、重い。
それでも少しマシになった気がして(というか、そう思い込もうとして)歩き続けることにしたです。

PM10:41 磯子区に突入


駅の近くになると私のように歩く人もちらほらいたんですが、駅を離れると歩いてるのは俺だけ、みたいな状況を繰り返し、ひたすら16号を歩いていきました。

PM10:44 磯子区総合庁舎前通過

この道通ると、勢い磯子壱六家の前を通過することになりまして…喰いたかったけど、ここで立ち止まると歩けない気がして、そのまま通過。

PM10:57 屏風ヶ浦交差点通過

このあたりはまだ人通りがあった気がします、ただもう、歩くのはかなり限界に来ていまして、このあたりで缶コーヒー買って数分休んだ記憶があります。

PM11:18 新杉田駅前通過

23:32:25--「方向表示看板に「観音崎」の文字が出始めた。なんか嬉しい。」

23:35:38--「うわー、徒歩きつそーなトンネルだー」

おそらく、富岡隧道のことだと思います。
この先、さらに三浦半島に接近していくと、どんどんトンネルが増えていきます。
本格的に三浦半島に突入して横須賀市に入ると、田浦の近辺は無数のトンネルがあるトンネルゾーンで、なお悪いことに、この地域は停電しているのです。
この先に進むには灯りが必要になる、どうしよう、とか考えていました。
車通りもなくはないのですが、規制かけられているのか、どんどん減っていきます。

23:44:52--「いずれ停電ゾーンに踏み込むということか。歩けるかな」

PM11:58 金沢総合高校入口交差点通過

2011年3月12日
AM0:00 京急富岡駅通過

ここで日付が変わりました。歩き続けて約4時間。
車の往来はほとんどなくなりましたが、「災害」の文字が入った自衛隊のトラックが次々通過していくのが見えました。
三浦半島は陸上自衛隊の基地があり、わが街久里浜にも久里浜駐屯地があります。
災害出動でかけつけるんでしょうね。

00:11:27--「能見台駅に灯りがついてる!京急の電力が復活してるんだこれ!」

実際に走行する列車も見たのですが、これは京急が人を運んでるのではなく、試運転の為に動かしていただけのようです。
さすがにこの頃になると腹も減ってきたのですが

00:17:02--「あー、能見台過ぎたら見事になにもねー」

00:20:29--「西友みっけ!24時間営業年中無休…って閉まってるじゃんっ!!」

まぁこういう事態です、開いてるわけがない。

ただ、数分歩いた先で

00:25:29--「サンクスめっけ!」

コンビニエンスストアを発見。
何か喰おうと入ってみましたところ

00:29:25--「なにもねえよばかやろー!」


まぁごらんのありさま。
震災で物品供給が滞ることを見越した地元の人が買ってっちゃったんですね、正直買えたのはコーヒーだけです。

そしてこの時、比較的近くで働いていたフォロワーさんが車で拾ってくれると連絡をくれました。

00:32:59--「ええ!?ほんと?すげー助かるけど、ほんとにいいの?!」

りゅうた君なんぞと呼ばれていますが、横須賀三浦クラスタじゃそれなり有名なキャンプ好きのナイスガイ。
仕事終わりに寄ってあげると言われ、このコンビニで拾ってもらいました。

車に乗せてもらい、横須賀市に入るまではよかったんですが、いよいよ横浜市を出て三浦半島に踏み込んですぐ。

真っ暗

01:03:30--「田浦、停電してるよ!歩いてたらやばかった!」

01:05:50--「逗子インターへんは信号も消えてる!」

01:07:17--「ラジオで停電復旧とか言ってるけど、してないっすわ。」

彼の車で久里浜に戻ると、久里浜一帯の停電は復旧しており(もっとも、わりと寸前まで停電していたらしい)、コンビニが軒並み閉まっていたので、久里浜港近くにあるコンビニで、店内にいる人を窓叩いて呼び(笑)、弁当なんとか売って貰って家に戻りました。
街では何のベルかわからない非常ベルが鳴り響き、教会の前では水道管が破裂して水が噴き出しておりました。久里浜でこの被害なんだから、被災地はもっと酷いだろうなと、家に帰ってテレビをつけて、その震災のすさまじさをはじめて知るわけです。

02:08:21--「いや、家で落ち着いたら一気に足腰にきた。なんだかんだで結構な距離歩いたしなぁ。」

久里浜の家に帰りついたのは午前2時。
水道管の破裂を見たときには家がどんな惨状かと思ってびくびくしていましたが、トイレの芳香剤さえ倒れておらず、被害といえば娘が驚いて床にしたお粗相だけでありました。

翌日、間引きの各駅停車のみで運転を再開した京急で嫁も無事帰って参りまして、わが家としては震災当日の顛末はこれまでなんですが、この後の世の中も今にしてみればすごかった。

なんといっても、一瞬にして周辺を永遠に死の地に変えてしまった原発事故、ここにも微妙に放射能は来たようですが、なんといってもそのあとの計画停電やデマが凄かったです。

「コーラには放射能を除去する能力がある」

誰ですかねこんなデマ流したの…。

まぁ、それに乗ってしまう人も山ほどいたわけですが。

「トイレットペーパーがなくなる」

オイルショックですかい。でも、そのデマで買い占めが横行し、うちも探して買わないといけない事態に。

「節電は美徳、やらないと非国民」

節電は悪いことじゃないですよ、でも、やらないと叩く風潮がすごかったです。


久里浜も例外なく計画停電に巻き込まれました。あえてどことは言いませんが、計画停電に無縁だった大電力消費地帯がありますわねえ、あまりにアホらしいのでこれ以上は言いませんが。
京急久里浜駅前、バスの灯りくらいしかない真っ暗状態。


この後しばらく、京浜急行も午後3時頃には列車を止めてしまうという節電措置が取られまして、更に悪いことに全列車を金沢文庫で止めてしまうという、JRも止めているので三浦半島の人間は家に帰れなくなるという事態も発生、実は、金沢文庫駅から三浦半島に達するバス路線というものがなく、行けてもその入口の追浜まで。
駅から延々歩くと横須賀行きのバスが出るバス停にたどりつきますが、このときも長蛇の列でとても乗れるような状況ではありませんでした。
横浜市から三浦半島各地への交通手段がバスに限定されるとほとんどない状況で、市長にまで直接リプライしてる人もいましたが、今になってもこの状況が改善されてるとは思えないです。

この後も計画停電や節電は半ば強制的に推奨されて、カレー屋さんはローソクで営業し


自動販売機は止まりました。


食材の流通も停滞して


東北の食材は供給を断たれました。


まぁ、そのあとで大量に仕入れちゃって余ったとこもありましたが…


2011年のあの日を振り返ると、今はここ久里浜に関してはほとんど震災の影響というものは見られなくなりました。
でも、あの体験を思い返すと、いつまた同じ事態が起こるとも限らないわけで、定期的にこの日のことを思い出して備えることは必要かなと思ったり。

とりあえずバス路線はなんとかして、京急バスさん。

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